世界の著名な先史文明の一つであるインダス文明が終息に向かうころ、紀元前13世紀末に、インド北西部からアーリア人がパンジャープ地方に数回にわたって侵入し、やがて定着する。かれらはその神話を讃歌集『リグ・ヴェーダ』にうたい、つづいて他の3つのヴェーダと諸註釈文献とが創られた。これらはいずれも天啓(シュルティ)にもとづくという。他方、徐々に司祭者のバラモンを頂点とするいわゆるカースト制度(四姓という)が構築され、この階層区分はインド全史を貫いて、今日もなお根強い。

 

アーリア人は前7世紀ごろにはガンジス河中流域のインド大平原に進出して、その生活が遊牧から農耕に転換し固定するなかで、最初の哲学文献ともいうべきウパニシャッド(秘密の教義、奥儀書という)の諸テクストが生まれる。

 

古ウパニシャッドには、宇宙の根本原理としてのブラフマン(梵)が、また個人の主体であり内在的原理であるアートマン(我)が立てられ、それらに関する教説が磨かれてゆくうちに、やがて両者の同一視が進められて、梵我一如という壮大な智慧を築きあげた。この原理は後代のインド哲学の主流となり、またヒンドゥの宗教を支える。やや遅れて、個人の現実の直視から、業(カルマ)による輪廻(サンサーラ)の思想が古ウパニシャッドに芽生えると、それは急速に全インドにひろまり、のちには東南アジア全体をも支配する。

 

前6世紀以降に、インドの濃厚社会は豊かな成熟を迎え、貨幣の普及と発展によって商工業がおこり栄えて、あまたの都市と群小国家とが誕生した。こうした新しい社会には、ヴェーダの宗教はいったん隠れ、バラモンも権威を失って、王族(クシャトリヤ)の勃興が顕著となり、自由で清新な思想家たちが活躍する。沙門(シュラマナ、サマナ、励む人の意)と呼ばれたかれらは、出家して世俗のいっさいを棄て去り、各々がみずから開拓した多彩な新思想に生き、解放されて新風のそよぐ社会の歓迎を受けた。

 

それら新思想の数を、仏教は62、ジャイナ教は363とし、それぞれの大綱を伝える。なかでも有力な6人の名を、その教説の概要とともに、仏典はかなり詳しく記録しており、かれらを六師外道と名づける。それについて一言ずつ触れれば、プーラナの道徳否定論、アジタの唯物論にもとづく快楽主義、パクダの七要素還元論(一種の唯物論)、ゴーサーラの唯物論を伴う宿命論、サンジャヤの懐疑論、そしてマハーヴィーラのジャイナ教となる。

 

ゴータマ・ブッダも、同時代のジャイナ教創始者のマハーヴィーラ(偉大な英雄の意、本名はヴァルダマーナ)も、この自由思想家に属し、仏教とジャイナ教とは、とりわけその最初期には、たがいに関連し合い共通するところが多い。両者は、バラモン教およびそれの変身したヒンドゥ教以外の二大宗教として、インド人に多大な感化をあたえつづけた。

 

なおジャイナ教が仏教と異なる主要な諸点をあげれば、ジャイナ教はもっぱら実践に徹して、たとえば苦行を過度に評価し、また不殺生を固守して、全インドに普及させた。だが大乗仏教のような大きな変革はみられず、またつねにインド国内にとどまる。しかし今日まで活発な経済活動を展開して、信徒数は200万人とはいえ、絶大な金融資本を掌握している。